What is tact やりあてとは
異質なもの同士が出会うとき、大抵それらはお互いに相いれない。
他のものと和することのない存在だから異質であり、唯一性を持つ。
それら異質なもの同士を「やりあて」る。
美的感覚と直観力によって、また超然的な閃きと臨機応変の才によって、本来結び合うはずのないもの同士を引きあわせ、新領域をつくる。
極限から極限へと振れてきた経験によってしか培われないこの熟練能は、かつて南方熊楠によってささやかに提唱された。
彼はその技術を「tact」と呼び、日本語で「やりあて」と翻訳した。
誰もが顧みなかった領域の知を押し拡げた熊楠にあやかり、「tact / やりあて」を私たちの事業の核心とする。
Art of culturing 技藝としてのカルチャリング
「技藝としてのカルチャリング」を探究し、伝達していく。
カルチャリングとは、まだ知られざる新領域を見いだして、そのものを耕し、培養することで、「カルチャー」化すること。
私たちが対象とするものはわかりづらく、まだ形が定まらないものだ。
すでにマーケット上に乗って、産業化しているものには遊びがない。
そこには労働があって、わかりやすく市場原理のもとで経済が動く。
現代人は「ホモ・ファーベル(労働する人間)」にのみ意義を見いだし、本来自分たちが「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人間)」であることを忘れている。
労働は合理化され、想像力の枯渇を生み、やがて未来を失うことにつながる。
事実、名の知られた企業がのきなみ「ビジョン」を求めて彷徨っている。
必要なのはカウンターとしての、いまだカルチャー化していない「カルチャー」。
マーケットからは理解されず、ゆえにどこにもニーズのないブルーオーシャン。
単なる「遊び / 趣味」としか思われていないような新領域。
誰も手をつけないその領域を扱いながら、労働化も産業化もさせず、どこまでも余暇を浪費する「遊び / 趣味」として貫き通すこと。
そこに私たちのまだ見ぬ未来がある。
眠ったままの想像力は「遊び / 趣味」を通じて、目覚める契機を待っている。
Statement 私たちの声明
これは一つの「カルチュラル・ムーブメント」である。
ルターによる宗教改革、市民が王政を打倒し実現されたフランス革命、皇帝ナポレオンの登場は世界に「国民国家」の樹立を目撃させ、世界は王政対民主の対立を助長した結果、第一次世界大戦が欧州の火薬庫バルカン半島から発生したことは未だ記憶に新しい。
大敗したプロイセン(現ドイツ)に世界は天文学的多額の賠償金を請求。その副産物として独裁者ヒットラーが世界を震撼させ、我が国日本は太平洋を跨ぎ「帝国」を築こうとヤンキー(アメリカ)たちに挑戦状をたたきつける。二つの世界大戦をへて、植民地地域は民族自決を叫ぶリーダーの下「独立」を果たしていく。
欧米列強からの経済的支配は未だ解消されないものの、パーソナルコンピューター、インターネット、スマートフォンといったテクノロジーの普及により、国家間の差分はあれど、個人間の心理格差や溝は埋まっていると言える。
そして、世界は過去最高峰に繋がる時代を謳歌し、同時に平和を手に「入れた」という、錯覚を享受した。しかし時計仕掛けの摩天楼があるとすれば、神は人類の均衡を許さないのかもしれない。「コロナ」と度重なる「災害」。全ての因果を人類に求めれば、私たちの果てぬ「欲」がこれらの災いをもたらしたのだろう。
時を100年前に戻した時。1919年に蔓延したスペイン風邪は当時まで正式に参戦を表明していなかった大量の米国軍人たちの移動によって激戦やまぬ欧州大陸に広がったとされ、一億人以上の死者という犠牲をもたらした。その後ウォール街の大暴落に端を発し、諸国はブロック経済をしき、第二次世界大戦の火蓋が切って落とされた。
その記憶のままに、コロナ禍以降、繋がりすぎた我々は一瞬にして分離分裂が起こり、国家という枠組みを越え、最終単位である民族という括りの中でウクライナやガザ地区、アフリカ大陸でまさに紛争と戦争が現在進行形で私たちの生存を脅かして、その恐怖が蝕んでいる。
一方、こういった激動期に生まれる人たちがいる。文化思想家・活動家である。無我無欲につき、己の好奇心に身を寄せて、ただひたすらに文化の収集と編集、発信を行う人たちである。
その一人が宮沢賢治、萩原禄山、渋沢敬三、柳宗悦であり、高度経済成長期以降には、岡本太郎や梅棹忠夫、堤清二や福原義春、福武總一郎である。政治、経済的権力に頼ることなく、懸命に、真剣に世の不条理に対して独自の表現方法と同人たちとの結託により、世界に真理をつきつけてきた偉人たちである。
こんな時代に生きる私たちにとって、もはや、変わらないものに価値を見出すことは必然と言えよう。それも、自然発生的に継承されてきた類のモノや空間、そして、個人に宿る「藝」に。既に宗教の力は没落し、SNSの対等により民主主義は腐敗している。
度重なる自然災害の猛威も人類の欲が作った産物であるならば、より一層、文化という無駄や浪費、非生産性から生まれる文脈に身を浸らせてみてはどうか?
これがまず第一の私たちの動機である。
tact 設立者の本村拓人は、世界100ヶ国の放浪の経験を経て、その土地特有の生活習慣や「グラスルーツ(草の根)」から有機的に生まれたデザイン(spontaneous design)に傾倒。帰国後、お世話になった地域への貢献として、途上国地域の文化支援を行う民間企業Granmaを設立。
2010年「世界を変えるデザイン展」、2013年マレーシア科学技術省と共に「Asia Grassroot Innovation Forum」などを主催。以降も「Design for Freedom」「border sessions Japan」「fermentators week」等のカルチャーフェスを主催して、国内外の文化資本の発展に寄与している。
本村の活動やそのアウトプットは、その土地の個性がリフレクトする「ヴァナキュール(自立共生的文化圏)」を「グラスルーツ」から生み出そうとしている。
この点は、まさしく二つ目の動機として君臨する。
結論。ここで改めてまとめておく。
文化とは何であって、何でないのか?
文化とは広義な観点からも「ホモ・ルーデンス=遊び」なしには生まれ得ない。そして、その遊びとは暇と退屈から時間を浪費してしまう対象に宿ることが多く、言い換えれば、ローカルの数だけ文化は育つといえる。
なぜならば、地形や生活習慣、気候などの違いがあるのはいうまでもない。そして、文化として言語化できるようになるまでにある一定程度の時間を要するという必然である。
つまり、文化とはファッションやトレンドでは語り尽くせず、したがって、マーケティングを活用した認知占有率を高めるのみでは到底広がり得ない、地道なる口伝や伝導による穏やかでスローな時間軸を前提とすることで、むしろそれらの遊びに深みと奥行きが表出され、最終的には「文化芸能」にまで発展しうると言える。
最後に、文化とは外来性(外部性)との交換により、ある文化の潜在性が花開くと言える。黒澤明の「七人の侍」がジョン・スタージェスによるアメリカの西部劇映画「荒野の七人」を生み出したように、高次元な文脈の交差によって対象物はそれまでに継承されてきた文化活動のおりなしと、外来性によって更に深化と神化を迎え「名作」となる。
こういった意味を持つ「文化」を国内外から集める試みは何も新しいことではなく、文化人類学の生みの親であるレヴィ・ストロースや建築家、エッセイストでもあるバーナード・ルドフスキーは先に述べた激動の時代の中でそこにしかない文化を継承させてきた。
私たちも、彼らに大いなるリスペクトと彼らの意志を半ば一方的に継承する形で、個々の「遊び心」や暇と退屈を「しのぐ」ことから生まれた文化を、この激動的な価値観の変革期に人々の心をヒーリングする「変わらぬモノ・コト」として採取、編集、発信していくことを翼として、また、このムーブメントの発端となったヴィジョンともいえる「ヴァナキュール(自立共生的文化圏)」を、意欲あるローカルに企画・実践していくことをここに宣言したい。
tact / 本村拓人